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まなざしの地獄

見田宗介「まなざしの地獄」読み終えました。
読み始めてから2日という早さ。
いやま、ページもほとんどないんだけどさ。(100ページもいかないくらい)

さすが、社会調査における名著といわれるだけあり、量的調査と質的調査が見事に融合しあっているなぁ、という印象を受けました。
月並みですが。
そして、どうしたらこのような見方ができるの?という、ある種センスというか、嗅覚みたいなものに舌を巻きました。
自分もこのレベルの分析で卒論を書きたいですが、時間という物理的な制約があるため、できません。
うそ、能力の問題だと思います。

ここでの題材となったN・Nという人は、永山則夫という連続射殺事件で逮捕された犯人で、既に死刑が執行されているのは有名な話ですが、見田さんは具体的・抽象的な表象性をもった都市からのまなざしにさらされ、囚われ、そして「地獄=監獄」へと引きずり込まれる過程を質的・量的な側面から描いていったわけです。
ものすごく端折って言えば。
彼がさらされたまなざしの裏側には、故郷というものがあり、貧しさがあり、そして集団就職があった。
そこに潜む社会病理みたいのを浮き立たせていったという点では、非常に意味のあるものだったと思います。


しかし、当然まぁ、納得いかない部分もあります。
主に3つ。
ひとつは、N・Nはただまなざされるだけの存在だったのか、っていうことです。
人間である以上、まなざしの向こう側にいる客体にずっとなっていたとは考えにくい。
彼が東京という街を、同じく集団就職で上京した同僚を、そして故郷を、どのようにまなざしたのか。
ただ、ここでいうまなざしと、見田さんの使ったまなざしとでは、多少意味が違ってくるのかもしれませんが。
だから、あえて捨象したのかもしれません。

ふたつめ。
それは、まなざした主体も、同時にまなざされるべき客体であるということ。
前者の言いかえみたいになってますが。
つまり、N・Nという一人の人間をまなざした主体の中でも、まなざし、まなざされる関係がいくつも生まれていたと思うんです。
それを、どう解釈すればいいのか、そして実際にしたのか。
気になるところです。
もしかしたら、どちらも言及しているのかもしれませんが。
そうだとしたら、僕の認識不足です。

そしてもうひとつ。
まなざされることによる、快楽みたいなのは存在しないのか、ってこと。
地獄は地獄で社会病理を映し出すのだろうけれど、逆に快楽というのは存在しなかったんだろうか。
快楽というのは楽観的な視点なのかもしれないけれど、光の裏には影があるわけだから、きっとそこにも病理と言うか、なにかどす黒いものが隠れているように感じたんですわな。

でもま、凄い作品だと思います。


とりあえず、大澤さんの解説での持ち上げっぷりには、多少引きましたwwww
解説の中で、N・Nの事件と、先日の秋葉原の事件とでは、「まなざしの地獄」と「まなざしの不在」という対照性が生じているといった言及がありました。
僕はちょっと違うのかなぁといった印象を持っています。
秋葉原の事件についても、その犯人に対するまなざしは存在してたんじゃないか、と思います。
ただ、その主体が誰かというと、それもまた彼自身だった。
つまり、鏡の前で向き合っているようなもので、ずっと向き合っているうちに、どちらが本当の自分だかが解らなくなってしまった。
そんな齟齬というか、混乱から少しずつ歯車が狂ってしまったんじゃないかな、なんて思うんですよ。
だから、誰からも存在を認めてもらえていないように感じた。
鏡に映る像自体には、まなざす力はありませんからね。

ま、僕は研究者でも専門家でもないのでよくわかりませんので、これ以上の詳しい言及は避けることにしておきますね。
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by rinnken1228 | 2008-12-17 00:28 | は○しケンイチ的こころ
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