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わたしはダリでしょう?

みなさんこんばんは。

今日もゼミでした。
おそらく、これが合宿前最後のゼミでしょう。
それなりに予定も埋まってきたようです。
結局、合宿期間中の取材のアポは3つほど取り、合宿後の取材のアポも1つ取りました!
大学の授業期間中なんですがね・・・orz...
まぁ、仕方ない。場所は神田です。昼ごはん食べながらの取材になるようで・・・
個人的に興味のある業種とも関連があるので、これから色々と関わっていきたい方です。
ちょー楽しみ☆ぜひ個人的にお話も伺ってみたい!!

ゼミテンのK保田氏がアポ取ってくれた、デザイン事務所にもインタビューに行きます。
都市デザインとか、そういう類にだんだんと興味が移ってきているので、そういうところで働きながらデザインや建築の勉強もしたいな~、なんて思っています。
ま、その前に普通に大学卒業しろ、って話なんですがね・・・orz...
明日、成績発表です。さて、どうなることやら・・・
かな~り落としてそうな気がしますがねぇ・・・(苦笑)


昨日は雨のため練習は中止。
新宿にフィールドワークに行くついでに、ダリ回顧展に行ってきました。上野まで。
平日だし雨降ってるから、どうせすいてるだろうという予想のもと、行ってみたわけですが・・・
いやはや、人だかりの山、山、山・・・
この回顧展の注目度の高さが伺えます。

ダリの作品は、1度観たくらいでは理解なぞできないでしょう。
日本語では「超現実主義」などと訳されるシュールレアリズムなぞ、それはその絵を描いた画家の内面に映し出されたものなのだから。
それに・・・彼自身、自分の絵が不可解なものであることなぞ、重々承知しているのだから。
けれど、そこに1つのシュールレアリズムの結節点をみることはできると思います。

彼の描き出した、人間の内面性には目を見張るものがあります。
ダリは、顔の後ろにもう1つの顔を描き出した。リチャード3世とローレンス・オリビエのように。
そこには人間の持つ2面性が描き出されていく。
そこには、ホンネとタテマエという言葉とは絡み合いそうで合わないもどかしさが混在して。

ダリは自分の父親に対する反抗から、この芸術的志向に行き着いたのかもしれません。
もちろん、自分は研究者ではないので解りませんが。


ところで・・・
芸術とはそこまでして高尚なものでしょうか?
いわゆる「芸術作品」と呼ばれる物体に対し、人々は群がり歓喜の声を上げる。
しかし、人々はそこに群がるのみなのです。
だから、音声ガイドなるものが会場で配られる。
それに嬉々として飛びつくのだ。
だが、それは人々から想像力を駆使するという作業を奪い去っているとも言えないか?

いまや芸術作品とは、その場において人々を満足させるだけの存在となってしまったのです。
人々は、教養を得たという見せかけの満足感を得て帰っていく。
もちろん、そのような教養は得た「つもり」になったものなのだけど。

その「見せ掛けの教養」を得るために、人々は美術館という箱の中に入っていく。
その中で人々は、列に並ばされ、ベルトコンベア式に作品を鑑賞することを求められていく。
この箱は、人々に非合理なオプションを付加するための実験箱に過ぎぬのです。


以前、ゼミの中でハイカルチャーとサブカルチャーについての議論をしたことがあります。
ハイカルチャーのみが教養なのでしょうか?
誰からも見られることのない、いや意識から意図的であれそうでないにしろ、排除されているものにこそ、芸術の真髄があるのではないでしょうか?
それこそが、人々の想像力を掻き立てる化学物質なのです。
それは、街中に散りばめられたグラフィティであれ、無機質に打ちつけられたコンクリートの壁であれ。
全てが芸術作品なのです。


全ての事物が芸術である。
もちろんそれは、絵画も彫刻も、そして・・・全ての出版物であれ音楽であれ。
けれど、それだけではなくて。
パソコンも、歯ブラシも、ノートの隅に描いた落書きでさえも、全てが芸術作品なのです。
身近な場所に芸術作品は散りばめられているのです。
芸術とは、高尚な事象ではないのです。


そんなことを考えていた初秋の夜。
秋はどんどんと深みを増しています。
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by rinnken1228 | 2006-09-28 23:30 | は○しケンイチ的こころ
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