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続・14才の母へのまなざし

みなさんこんばんは。


今日はゼミでございました。
ゼミ論中間報告会第2弾の1日目。
・・・というわけで、発表させていただきましたよ。(笑)

自分はそれなりに方向性が固まっているほう(だよね、たぶん)なので、その分やたらと突っ込まれましたが・・・orz...
まぁ、かなり収穫のあるものとなりました。
個人的には、やっぱり今までどおり、看板広告を見ていこうかな・・・と。
ちょっと新宿のイメージ論とは離れて、広告のみをみていこうかな~、なんて思っていたり。
まだ固まっていない部分はあるけれど、荒削りな部分は多いけれど、そんな感じでいこうか・・・と。

そんなわけで。
今、必死こいてボードリヤールの「消費社会の神話と構造」を読んでおります。
これがね~、意味プーなんですよ、本当に。
解説してくれる方、募集中です。
一応ね、某T田大先生のプリントを参考にはしているのですが。難しいところです。
そういえば・・・
多田治でググったら、僕のブログがヒットするとかしないとか・・・
まぁ、知ったこっちゃないす。


ところで。
どうやらもう片方のゼミ幹をちょっとイジりすぎてしまったようで。
う~ん・・・ちょっとやりすぎたとは反省しております・・・orz...
本当に申し訳ない。


さて。
前回の記事にもあったように、14才の母へのアプローチを今回も仕掛けてみたいと思います。
前回はひどかったからな~・・・
まだ荒削りではありますが、前よりは洗練された形にはなったか・・・と。
通りすがりの者さん、コメントありがとうございます。

・・・・・・では、いきましょうか。


前回にも書いたけれど、このドラマを日本人的なものへのまなざしからくるものだ、という仮定に基づいて話を進めていきます。
確かに、他の側面からのアプローチはたくさんあると思う。それは性教育であり、命の尊さ・・・要は倫理学的な側面からも可能だし、法学的にもはたまた経済学、医療からの見方も十分に可能です。
けれど。
それはあくまでも枝葉であって、本質の部分ではないと思う。

じゃあ、本質の部分は何か?
それこそが・・・「日本人的なものへのまなざし」なんじゃないか・・・と。


では・・・日本人的なものとはなにか?一言で言っても幅は広い。
新庄じゃないけれど、守備範囲が広すぎる。それを絞る必要があるわけで。
ルースベネディクトや中根千枝的な発想ではあるけれど、日本人的なもの・・・その1つに世間があるんじゃないかな、と思うわけで。
・・・というわけで、世間に絞ってみましょうか。いうなれば、「世間へのまなざし」といっても大方マチガイではないわけで。

特に・・・その世間の持つ「よそ者」への排他性であり、村八分的な観念に重きを置いてみることにしましょうか。
そこには、多分に性観念・・・つまりはジェンダー的な志向が詰まっています。


このドラマでは、妊娠という現象をある種の「病的なもの」として捉えている、といえます。
しかし。
それは他の病気とはまったくもって異なるものなわけで。

「1リットルの涙」というドラマをご存じでしょうか?
主人公の少女は、脊髄小脳変性症という不治の病を背負います。
このドラマでは、その病と「前向きに」付き合っていく少女の姿が「感動的に」描かれています。
もちろん、カッコつきで書いたのには理由があるわけですが。

しかし・・・視聴者はこのストーリーをいわば「すんなりと」受け入れていきます。もちろん、一概には言えないでしょうが、大方それは当てはまっているでしょう。
では、今回のケースはどうでしょうか?

「1リットルの涙」の中でも、厳しい世間の目に晒される場面が出てきます。
しかしそれは、彼らは無知の象徴であり、あくまでも1つの試練としての存在でしかない。
ですが・・・その論理は「14才の母」では当てはまらない。

それはなぜか?
それは、「14才で妊娠」した瞬間、彼らの所属するコミュニティ内において「よそ者」が誕生した瞬間だから・・・なのです。
そのコミュニティこそが、学校であり地域社会であるわけで・・・


では・・・その違いはどこにあるのか?
それは自制可能性にある、といえるでしょう。
「1リットルの涙」で扱われるような病気は、ある種予防不可能なものであり、自ら防ぐことはできません。
しかし、「妊娠」にはその前に「性行為」というひとつの儀礼を通過しなければならないわけで。
それは当然、自制・・・つまりは予防可能なものです。

上のように、自制が可能か否かにより、「よそ者」が誕生するかどうかが分かれてくる・・・のです。
もちろん、14歳での性行為、そして妊娠をタブー視しているコミュニティで、という前提条件はつきますが。

これにより、「14才で妊娠」した者への排他的なまなざしが誕生します。
それが、世間の目なのです。


では、妊娠という事象の周囲に目を向けてみましょうか。
妊娠には「した者」と「させた者」の2者が存在します。当然ながら前者は女性であり、後者は男性なわけで。
その2者が存在しない限り、妊娠は成立しません。

では、双方に向けられる世間の(排他的な)まなざしはどうか?
矢面に立たされるのは、男性ではなく女性なはずです。
そこにはひとつのジェンダー的志向、という観念がその世間に対して深く刻まれているといえるでしょう。


それでは、「14才の妊娠」への世間のまなざしを見てみましょう。
「14歳での妊娠」は、あくまでも「14歳での性行為」を可視化させたものにすぎません。
つまり、「妊娠したこと」よりも「性行為をしたこと」に対して、世間は重点を置いてみるのです。
そこには・・・強力な性へのタブー視を見てとることが可能です。
同時に、若年での性行為に対する強い反発感情も伺えるでしょう。

ですが、「妊娠」そのものに対してはどうか?
問題視しない、とは言い切りませんが、あくまでも二次的な結果・産物として処理しています。
あくまでも、「性行為が可視化されたもの」にすぎないのです。

本質的な部分、つまりは命・責任問題・医療etc...といった「妊娠」における本質的事象は捨象され、それらは「後づけ」でしかならなくなります。
本質的な問題以上に、その前戯的事象が触れられ、問題視されていくのです。


このドラマでは、そこへの問題視がなされているんじゃないでしょうか?
つまり、そのような世間に対して・・・ゆくゆくはそこが日本人的なものへのまなざし、となり、それを扱おうとしたのではないでしょうか?

もちろん、違った見方をすればまた違うモノが見えてくるんでしょうけどね。


う~ん、前よりはまとまった気がするけど・・・
どうだか。
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by rinnken1228 | 2006-12-08 02:30 | は○しケンイチ的こころ
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