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抵抗への快楽へ招待します

みなさまこんばんみ。

ただ今、大学の情報棟におります~。
本当は、社会調査特問のレポートを書こうと思ったのですが・・・
USBを忘れるなどという笑えないことをいたしまして・・・orz...
泣く泣く(?)ブログを更新しているわけであります。

それにしても。
グーグル検索でトップに引っかかるように設定するのはどうすればいいんですかね?
誰か、教えてください。(←結構切実・・・


そういえば。
どうやら自分はモノの好き嫌いが激しい性格のようで。
別に嫌いな食べ物は無いんですけどね。
ただ。
どうも好きになれないこととなると、それを露骨に表現してしまうようでして。
別に知ったこっちゃないんですがね、そんなこと。
そうも言えないか・・・

ただね、合う・合わないの判断で、「合わない」と判断したら、それを自分から遠ざけようと試みてしまう。
それは露骨なまでに。
それは組織であっても、人であっても・・・ね。
ま、そんな人間ですよ、自分は。


ところで。
先日、テレビで「ラスト・サムライ」を観ました。
そのせいでレポート提出が遅れたんですがね。
・・・言い訳ですがなにか?

あの映画の中で、一番印象的なのは、やっぱり真田広之の演技でしょう。
なんてったって、最後まで残れないことが、またいい。
もちろん、それが脇役の性なのだ、っていったらそれまででしょうが・・・

それはいいとして。
あの映画を観ると、どうしても黒澤明の「生きる」と比較しようとする自分がいます。
人物設定も全く違うし、その時代背景も全然違う。なのになぜ、それを連想してしまうのか?
おそらく、その終焉に「死」というものがあるからだ、なんて僕は思うんです。
その死までのルートの中に、「抵抗の快楽」が存在する・・・そんなふうに思うわけで。
もちろん、J・フィクスは関係ないですが。

どちらの映画も、「期限付きの生」の期間の中で、何かを残そうともがく人々を描いています。
もちろん、その「何か」が全くもって異質なものであるわけですが。
それが「ラスト・サムライ」では「サムライとしての散り様」であり、「生きる」では「公園である」わけで。
前者の場合、散り様とは目に見ることのできないものです。
そこで、その擬態としての桜が登場している。
もちろん、桜は日本人の象徴(として捉えられることが多い)ですし、日本の心とでも言えるのでしょうが。
ま、それもひとつのバイアスなんですけどね。

では後者の場合はどうか。
「生きる」において、公園は自分の生きた証を可視化させたものと位置づけられています。
そして・・・それはまさしく無機的なもの。
子供もいるのに、無機的なものへの愛着を持つのです。
それは人間が孤独であるという、逆説的な証明にもなっている。

さて、話がそれました。
ここからは「生きる」について重点的に触れることにしましょうか。
この映画の中で、「期限付きの生」のなかで公園を残そうとする行為は、まさしく「抵抗である」といえるでしょう。
死を黙って受け入れるのではなく、何か生きた証を残そうとしてもがこうとする。
それが「抵抗」なんじゃないか・・・と。
それもこの上ない死ぬことへの抵抗なわけで。
それは、最終的に「生きる」ことへの執着につながると思うんです。


では、なぜ快楽なのか?
そこには<アリとキリギリス>の美学な~んて論理を持ち込んでみたら説明がつくように感じます。
主人公は市役所という極度に合理化された環境の中で、市民課長として堅実な人生を歩んできた。いわばアリの美学をあらわしています。
しかしガン宣告を機に、それまでの自分が無意味であったように感じていく。
そして、刹那の快楽へと向かうのです。夜の街で遊びほうけてみたり・・・していく。
それがキリギリスの美学。そこの裏には「堅実さの持つ無意味さ」という錯覚があるのです。

けれど、それにも段々飽きていく。何かへと情熱を注ぐことを求めていくのです。
それが主人公にとっては公園だった。
ではなぜ、前の2つは覆されたのか?
結局はどちらも情熱を注がなかったことに原因があるのです。
何かを思い切り楽しもうとしたのではなく、淡々と仕事をこなす、金を使うことへと走ってしまった。
簡単に言えば、「流されて」しまった・・・
そこに飽きたんだ・・・と思うのです。
だから、「生き生きと」していなかった。

けれど、そこから何かを残そうと決心する主人公には、どこか「生きている」という印象を受ける。
しかし、それは難しいことでもあるのです。
直前に終焉がせまった環境に身を投じるほどでなければ、難しいこと。
もちろん、中にはできる人もいるのでしょうが。
たいていの人は楽な方へと流されてしまう。

しかし、流されることから抵抗すること、そこに生き生きとしたもの・・・つまりはひとつの快楽を見出したのかもしれません。
そして、その快楽こそが、快楽というものの本質の部分ではないのでしょうか?
もしかしたら、それを黒澤は気づいていたのかもしれませんね。


あ・・・ラスト・サムライについてはまた今度・・・ってことで。
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by rinnken1228 | 2006-12-12 16:19 | は○しケンイチ的こころ
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