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いのち、生きる、生きろ。

おはようございます。

朝、テレビをつけたら、肥薩線の旅を特集してまして。
久しく九州行ってないなぁ、と。
なにげに南九州行ったことないなぁ、と。
大分出身なのに。

退院したら、九州をぐるっと周るのもいいかな、なんて思ってみたり。
ええまあ、ぶらり旅ですよ。
金、ないけどね。

自分はどうやら目的のない旅の方が好きで。
もちろん、それぞれのスタイルで醍醐味は変わってくるのでしょうが。
でも、やっぱり何も計画立てずにふら~っと行って、ふら~っと帰ってくるのが一番好きで。
だから、持っていくのも電車の時刻表だけ。

目的のある旅って、どうも好きじゃなくて。
ある程度、結果を予測していくからな。
その期待値を下回ったときの落胆は大きくて。
そうやって身構えていくのは、どうも息苦しいわけで。
チアノーゼになりそうになるもの。

「どこどこへ行った」
それそのものが目的になるのが嫌。

それよりも。
丸腰でいって、あらゆるものを感じるほうが性にあっていて。
ヒト、モノ…出会うもの全てが、自分の価値観を引っくり返して。
また新しく自分の中で再構築されていくのを実感するのが楽しくて。

ふと思い立って、行く。
完全に直感で。
だから強行軍にもなるし、金も底をつくのですが…
でも、その場所が呼んでるから、行くんだよなぁ。
いま、九州が呼んでいる…わけで。
勝手に思ってるだけだけど。

車でいくのも悪くないか。
てか、バイクの免許が欲しいわけで。
原付で旅行は…ねぇ?

前置きが長くなりましたが。
1月も入院していると、医療関係のトピックには敏感に反応してしまうわけで。
読売では医療ルネッサンスなる連載もやってますしね。

医療って、それそのものが理不尽なものだと思って。
理不尽であり、非合理的であり…

普通ならば命を落とすような病気でも、それを延命しようとするのだから。
確かに、それはとても尊いことではある。
でも、本当にそうか?
なにか、どこかウラがあるような気がしてならなくて…

例えば終末医療とか、安楽死の問題。
もう、寝たきりで死へのカウントダウンが始まっている状態で。
それでも延命しなければならない。
僕らがその患者を殺す権利はないのだから。
でも、逆に周囲が患者を生かす義務は本当にあるのか?
生きるかどうかの決定権は、その患者本人にあるはずで。
でも、その本人は決定をくだせる状況には…ない。
そんなとき、どうすればいいのだろう?

自分の祖父が亡くなったときの話ですが。
心拍が停止したとき、僕は蘇生には反対して。
その直後、母親に張り倒され。
「あんたに、おじいちゃんを殺す権利がどこにあるの!」
そう言われた。
でも、僕らに祖父を生かす権利もあったのだろうか?
苦しい思いをさせてまで。
結局、蘇生はやらなかったんだけど。

確かに、そのとき母親はヒステリーにはなってたけれど。
でも、小学生ながらにその時の光景とショックは忘れられなくて。
ただ、自分がませたガキだっただけかもしれないけれど。(笑)
それとも、自分は冷たいだけなのかな…

入院、という状況も理不尽な行為ともいえて。
隔離され、管理(ヘタすりゃ監視)下におかれるわけだから。
そこでは患者の自由はできるかぎり制限されて。
食事、運動、その他もろもろにおいて…ね。
それに関連して、医師は絶対的な権力を患者に対して持つわけで。
それは裁判官と被告人の関係にも似ていて。
たぶん、有罪判決を受けたときもこんな感じなんでしょうな。
「きみ、入院だね」って言われたときの感覚は今も忘れられず…

でも、病院が患者の行為を制限する権利などそもそもあるのか?
でも、治療のためには行動を制限する必要があるのも事実で。
そしてそれは、病院側もよかれと思ってやってることで。
そんなジレンマもあって。

もしかしたら、隣のじいさんがいつも食事の愚痴を言うのは、そんな管理に対するささやかな抵抗なのかもしれず。
というか、たぶんそうだ。

「最新医療」ってのも、理不尽なもので。
よく紹介される最新医療ってのは、まだ臨床において確証のとれた医療方法ではなくて。
だから、安全性が保証されているわけではなく。
普通は「標準治療」といわれるものを実施するわけで。
けれど、患者やその家族は「最新」を望む。
ネフローゼについても、「最新医療」なるものがあるらしく。
「標準治療」で使うステロイドは副作用も強いからね。
最新医療では漢方を使うらしい。
でも、まだ臨床で実証されたわけではなく…
患者側と医者のズレ。
早く楽になりたいという思いと、確実な方法で治したいという思いのぶつかりあい。
それもまた、ジレンマであり。
それは、病気腎移植の問題にも当てはまるわけで。

「いのち」って、一度失うと2度と作り直せないもので。
だからそれだけ、ナーバスにもなる。
でも、ただリスク回避のための治療なり延命だけになってないかな、って思ったりもするわけで。
それは、治療される本人ではなくて、その周りのエゴであって。
そりゃ、医療が進歩すればもっと変わるかもしれない。
それは急務ではあるけれど、また難しいことでもあり…

もっと、制度とか考え方そのものにメスを入れることはできないかのな?
発想のコペルニクス的転換はできないんだろうか?

なんだか、難しいですな。
どちらにとってもハッピーな医療、ってあるんだろうか?
by rinnken1228 | 2007-03-04 12:35
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