みなさまこんばんみ。
ただ今、実家に帰っておりまして。 ・・・といっても、ヒマです。 やることなんてありません。 いつの間にか、実家のパソコンが新しくなっておりました。 つい1週間前まではWindows95という、シーラカンスばりの化石っぷりを発揮していたパソコンが、今やWindows Vistaですよ。 大橋巨泉も思わず「ナウい!」と叫んでしまいそうな予感であります。 今日からプレドニンが18mgになりました。 いまのとこ、順調な様子です。 このまま、再発もすることなく完全寛解になってくれればいいのですが。 ネフローゼのことを、ストーカーに例える人もいます。 ストーカーの影に怯えながら生活する人の気持ちが少しはわかったような気がしました。 昼はRun for the Cure Foundationの事務所に行ってきました。 主に事務所の片付けと、あとは先週から続けている乳がん治療を受けられる病院のリストアップ。 なかなか難しいんですよね、この作業が・・・ 乳がん学会(そーゆーのがあるんすよ・・・)のホームページに載っている学会認定医の勤務先が古すぎるんです。 しかも、中にはこの世にいなかったりするわけで。 あまりの杜撰さには、腹が立つのを通り越して褒め称えたくなる気分になってくるものです。 最近、どうもおちゃらけたことしか書いておりませんで。 一部の読者さんからの苦情が殺到しておりますので、少しは真面目なことも書こうと思いまする。 ただのエロガッパだと思ってたんでごわすか? いやいやいやいや・・・・・・ その通り、ただのエロガッパでございます。(←ヲイ! はい、話が思わぬ方向に逸れまして。 それでは、以前から書こう、書こうと思っていたことでも書こうかと思いまする。 ちょっと前の話ではあるけれど、こんな事件があったそうで。 メディアでも随分と報道されていたし、知っている方も多いのでしょう。 何を今さら、という気分でもありますが、あえて書いてみることにする。 別に、自分にそういった趣味があるからではないですからね。 先にくぎを刺しておきますが。 この事件に対する評価は2つ。 主に、通報しなかった乗客に対する「批判」と、その対極に位置する「擁護」。 僕自身は彼らを擁護することも、もちろん批判することもできやしないと思っています。 なぜならば、僕はその場にいなかったのだから。 ただ、それだけ。 もしその場に自分がいたとするならば。 もしかしたら、体を張って助けに行ったかもしれない。 だとするならば、僕は彼らを「情けない」と一笑に付すだろう。 そんな一瞬のヒロイズムに酔いしれることもできるかもしれない。 「日本も でもその一方で、もう1つの可能性さえも存在する。 何もしなかった という選択肢。 だとするならば、自分は周りから後ろ指を指されることになるだろうし。 一生(とはいわないまでも)の禍根を残すことにもなるだろう。 おそらく、そっちを選ぶ可能性のほうが高かったんじゃないか。 だから僕は、彼らを批判も擁護もする気はないわけで。 その中でも、どちらかを選ぶとしたら、おそらく僕は彼らを擁護するでしょう。 この報道を見た時、とっさに思いついたのがKitty Genovers事件。 Kitty Genoversという女性が殺害され、死姦されるのを38人が多かれ少なかれ目撃していたにも関わらず、通報しなかったという事件。 社会心理学などでは、援助行動や傍観者効果、介入といったトピックを扱う時に例に出される事件ですが。 この前の社会心理学の授業でも登場してきまして。 あまりのタイムリーさに驚きましたが。(笑 ここで、38人は援助行動を起こさなかった。 その行動を起こしたのは39人目だった。 じゃあ、彼らはなぜそのような行動を起こさなかったのか。 それは、社会心理学でいう傍観者効果で説明されるわけで。 それが、今回の事件にも恐ろしいくらいにしっくりと当てはまるのです。 事件から30年以上たった今でも、それがアメリカではなく日本で。 彼らが援助行動に走らなかった理由はいくつかあるのでしょう。 援助者の数、場の雰囲気、援助コストといった、援助の性質そのものへの問題。 実際に、その場の雰囲気に呑まれて動けなかった人はいたはずです。 そしてまた、助けに行った際に自分に降りかかるコストと天秤にかけた人もいたのでしょう。 それは単に、肉体的なコストだけではなくて、時間的・精神的コストもすべて含めて。 だから、もしかしたら、彼らの選択はある意味で非常に合理的だったのかもしれません。 皮肉な話ではありますが。 ほかにも、単に男女の痴話ゲンカ、と思った人もいるのでしょう。 男女のそういった問題には、周囲は介入したがりませんからね。 ある意味、「多数の無知」といった状態でしょうか。 そして最後は、「責任の分散」。 ある意味で、フリーライダーになってしまう、ってことですな。 これらすべて、人間にとっては非常に合理的な選択ではあるのです。 それがその後どのように評価されるか、は別問題として。 犯人のやったことは卑劣極まりない行為。 被害者はもしかしたらPTSDなどを患っているかもしれません。 そのような状況の中での、周囲の行動は一見「非人間的」。 けれど、それは日本人のモラルが低下したからでも、この場が特殊だったからでもなんでもない。 どこでも起こり得るものだったはずです。 それが例え、渋谷のど真ん中だとしても。 もちろん、それらを机上の空論、として片づけてしまうことは簡単なことです。 しかし、このような状況はほかの場所でもあり得る、ということは常に意識しておかねばならないことで。 その都度、その都度、モラルの低下を引き合いに出したところで、何も成長することはないわけです。 だったら、そのような状況を生み出さない、社会的装置を作ることこそが必要だと思います。 どうしたら、その犯罪そのものをおこさないようにできるのか。 それを一番に考えるべきなのに、話がどこかすり替わっているように感じてならぬのです。 ある事件には2種類の傍観者がいます。 1つはその事件を本当に目撃する者。 もう1つは、その事件を目撃することなく、人づてに聞くもの。 前者はその事件に対して口を開くことはあまりないけれど、後者はそれらにたいして思い思いの判断を下す。 それらに対して、利己的かつ責任を持たない評価を。 そのような評価は、どうしてもセンセーショナルな事象に共鳴しがちで。 「2重の傍観者」モデルとでも勝手に名付けましょうか。 それらが概して悪いことである、とは言い切れない。 けれど、そうすることが話の本質そのものをすり替えてしまう可能性があることも、頭の中には入れておかないといけません。
by rinnken1228
| 2007-05-02 22:49
| は○しケンイチ的こころ
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