死にたいなら、死ねばいいじゃん、って思いますけどね。 そういう勇気があるだけ、僕からみたら、尊敬に値します、いや本当に。 自殺した子からしたら、僕みたいな人間は、ただの臆病者に違いないのでしょう。 三島の仮面の告白ではありませんが、僕はよく、将来こういう死に方をして・・・みたいなしょーもないことで空想に浸る性癖みたいなのがあって、自分自身は死ぬことに対して恐怖心を持っていないんだと思っていましたが、実は一番死に対して怯えているんだろうなぁ、なんて思うようになりました。 逆説的ではありますが。 勇敢な奴ほど早く死ぬ、といいますか、そういう論理でしょう、たぶん。 ・・・違うか。 話はそれましたが、こういう事件おきると、いじめはいけないだとか、命は粗末に扱うなとか、結果しか見てないような議論をよく見かけますが、そういうのってどう考えたって幼稚だよね。 いじめが原因だかなんだか知らないけれど、自殺するのは誰かに言われたからじゃなくて、自分で決めたことなんだし、悔いはないでしょ、って思いますけどね。 粗末に扱ったかどうかなんてのは、結局他者からの尺度でしかないわけだから、そんなのを当てはめたってしょうがないわけです。 死んだ人は、もう何も語らないのだから。 戦争における「犬死」と「名誉ある死」の違いみたいなもんでしょうか。 結局、戦死だっていう・・・wwwww そもそも生きることが絶対的な善になる、って発想自体僕は好きじゃないですけどね。 生きることを強制的に強いる必要はないんじゃないかなって。 死ぬのも自由じゃね、っていう。 どうせ、1年も経てば忘れるわけだからさ。 だから、死にたきゃ死ねばいい、っていう発想になるわけ。 いま騒がれてる環境問題を解決する一番の方法は、人口を減らすことらしいから、口減らしの口実にはなるんじゃないですかね。 極論言えば。 いじめだってそう。 だったら、部落差別とかやめたら?とか思うし。 どんないじめだったかは知らんが、部落差別よりはましでしょ。 僕の昔住んでたところは、部落差別がひどかったですからね、僕はまだ小さかったし、よくわからないけれど。 そういうご都合主義は、あまり好きではないねぇ。 いじめが本当に社会問題だと思うのであれば、命の尊さとか説いて回ったって、効果ないわけですよ。 だって、対症療法でしかないもの。 もちろん、死にかかっている人を救う効果はあるかもしれんけど、根本的な解決にはならんと思う。精神論じゃ解決できない状況にまでなってるわけでしょ、現実問題として。 いじめがいけないとかなんとか言ったって、それでいじめがなくなるんだったら誰も苦労はしないはず。 自己と他者がいる限り、差別の感情は絶対に出てくるわけだから、それは仕方ないものとして向き合うしかないわけでしょ。 いじめはいけません、なんて上から押し付けたように言うんじゃなくって、もとから起こらないシステムみたいなものを作ってしまえば、いじめなんてなくなるんじゃね? 個人の努力に帰そうとするから、話がおかしくなるんでしょ、たぶん。 人間ってのは、環境によって行動が規定されるんだと思うので。 日本の学校教育の特質としても、子供にとっては学校が、社会の全部みたいなところがあるわけだから、そういう小さなコミュニティの中で、いじめを阻止するようなシステムを作ることができなかったら、社会における差別なんてなくすことはできないと思いますがね。 ちなみに一番の方法は、強権政治を敷くことだと思います。 とりあえず、先生がことあるごとにキレる、みたいな。 まぁ、今の社会じゃ無理じゃろね。 ちゅーわけで、いじめはなくならんと思う。 ▲
by rinnken1228
| 2009-01-21 10:23
| は○しケンイチ的こころ
子供を置いてパチンコ行ったって、べつにいいんじゃね?とか思うんですがね。
Excite エキサイト : 社会ニュース 近くで子供3人が死んだ火事があったのですが、そこの母親が子供を置いてパチンコに行ってたらしく、それがどうやら非難の的になっているようです。 僕はパチンコをあまりしたことがないのでよくわかりませんが、パチンコに行ったからといって育児放棄になるとは到底思えないし、もちろんパチンコが絶対必要なものだとは言わないけれど、悪だとは思えません。 悪だと思えば、当人が行かなければいいだけのものだと思いますし。 ただし、その価値観を他人の行動にまで当てはめるのはいかがなものかと思います。 麻生さん風に言えば。 じゃあ仮に、市役所に行ってる間になったとしたらどうなのか。 近くのスーパーに買い物に行ってたとしたらどうなのか。 この論理だと、市役所なりスーパーなりが批判の対象になりますよね。 だけど、あら不思議、この場合はおそらく批判がなされない。 母親の義務の放棄にはつながらないらしい。 報道などを見ていると、その論拠としては、まずひとつに外出時間の長さという問題があるようです。 確かに、買い物なんかに比べてパチンコのほうが長引く危険性は高い。 けれど、子供を置いて外出した時点で、火事が起こるリスクは格段に上がるわけですから、どこに行こうと同じじゃね?という反論はできるわけです。 次に、子供を置いて外出した行為そのものに対する批判があるようです。 ただ、ちょっと待て、と。 パチンコ屋にもいまは託児所を設けているところが多いらしいのですが、それは置いておくとして。 仮に仕事をしていたとしたら、そこは育児環境がしっかりしているという保証があるのかどうか。 おそらくないでしょうね。 託児施設を日本の中でどれくらいの企業が託児所を設けているのかは、資料を持っていないので知りませんが、感覚的にそこまでないでしょ、と思ってしまいます。 じゃあ、民間に委託すればいいじゃないか。 でも、入園制限している託児所・保育園ばかりです。 毎回子供を連れて外出しなきゃいけない、なんていわれたら、世のお母様方はまったく羽なんて伸ばせやしませんよ。 ということは、ヘタすりゃ、母親である人は、絶対に子供から目を離してはいけないって話になる。 もっと踏み込んでしまうと、主婦という存在を絶対的に求めているってことになる。 この批判だと。 ちょっと飛躍しますが。 主婦になりたい/なりたくないってのは女性個人の選択肢の問題なので、別になんとも思いませんが、社会そのものが主婦を絶対的に求めるという論調に対しては、なかなか違和感を感じてしまいます。 特に女性の社会進出が叫ばれている時代にもかかわらず、なぜ逆のベクトルへと話が進んでいくのか。 ならば、かかるリスクをヘッジ下上で自分の時間(仕事でも遊びでも)を作る方法について議論したほうが生産的だと思うんだけどな。 そう考えるのは僕だけでしょうか。 続いてパチンコという娯楽に対する批判があるようです。 ここまでくると、頭弱いんじゃないかと思ってします。 そういうことを言う人たちには、どこか「娯楽=悪」みたいな方程式というか構図が成り立っているようです。 じゃあ、その人たちには娯楽はないのか。 そりゃ、個々に聞いていかなきゃいけないでしょうが、それは嘘だろうね。 んで、おそらくこう言われるでしょう。 「健全な」娯楽と「健全でない」娯楽にわかれると。 どうやらパチンコは後者の部類に入るらしい。 なるほど。 では、「健全」かどうかを決めるのは、誰なんでしょうかね? どっかに神の視座でもお持ちになってる方がいて、そこで判断してるんでしょうか? それならば納得ですが、おそらく違うでしょうね。 どっかでモクモクと湧き上がった論理ないし価値観でしかなくて、結局そこに縛られた議論になる。 価値観に縛られない議論なんてのはそもそもできませんが、だからといって単純な善悪の二分法でグルーピングしていくというやり口には抵抗を覚えます。 誰だったか忘れましたが、趣味によって社会階層がわかるって話を聞いたことがあります。 ソーシャル・キャピタルの話ね。 趣味と娯楽を一緒にしていいかどうかは議論の余地があるでしょうが、パチンコをする階層は、決して高い階層ではないと思います。 積もり積もれば大変なことになりますが、少ない出費で楽しめる娯楽ですからね。 だから所得の少ない人でも集まりやすい素地みたいなものはあるんだと思います。 裏を返せば、「健全でない」娯楽と批判する根底には、そういった階層に対する差別というか、侮蔑みたいなものを感じてなりません。 どんな立場の人間だって遊びたいという欲求はあるわけですから、そこから目を背けることはいかがなものかと。 見せかけのストイシズムみたいなものは、あまり好きではありません。 やるなら根本からやってもらいたい。 事件報道だけからしか判断できませんが、その中での伝えられ方ないし反応からは、こーんな印象を受けてしまいます。 じゃあ、今度はもう少し根本の部分を見てみると、そもそも報道する必要があったのかどうか、って話になってくると思います。 伝える側の論理としては、情報を欲してる人間がいるからだとか、報道の自由だとかって答えが返ってくることが予想されますが。 前者については、それは伝えた結果であってのことであって、その情報自体を本当に視聴者が欲しがっていたのかについては、疑問が残ります。 視聴者としては、あるから飛びついてみた、という部分はあると思うので。 後者については、完全に伝家の宝刀・錦の御旗みたいになっていると思います。 まるで隠れ蓑ですが、人間のプライバシーに勝手に踏み込んで行っていいのか、という疑問は常々持っています。 悪事を働いたのであればともかく(これが悪事に該当するのかどうかも微妙だけど)、微妙なラインの内容にまで踏み込んでしまっても本当にいいのか。 伝えられないことによって守られていたはずのものが、伝えられたことによって踏み荒らされてしまうんじゃないのか。 そしてメディアにはそういう権利があるのか。 メディアの守備範囲が拡大しつつある今だからこそ、考えなきゃいけないことだと思いますが。 ▲
by rinnken1228
| 2009-01-09 17:30
| は○しケンイチ的こころ
昼を食べていたら、歯が欠けました。
これまで虫歯になったこともなく(誤診はあるけどwww)、口内環境はいたって良好だったのですが、それもついに終焉を迎えたようです。 虫歯なのかよくわかりませんが、とりあえず明日歯医者に行ってみようと思います。 Excite エキサイト : 社会ニュース 派遣村ってのが話題だそうですね。 伝聞推定形で書いているあたり、我ながら情報格差を感じます。 僕は派遣切りってのが本当に悪いことなのかどうかも判断しかねますし、そもそもそれを大々的に報道しちゃってるテレビってのも、派遣で成り立ってる業界じゃねーか、なんて突っ込みを入れてしまいたくなります。 僕にとっては、派遣をきること自体は、企業が生き残っていくために取る選択肢としては間違ってはないんじゃないかなと思っています。 それが、世間からどう思われるかは、また別問題ですが。 おそらく、派遣切りをされた人たちが絶対的に同情されるべき存在で、保護されるべき存在であるとは言い切れないと思います。 もちろん、個々のケースによると思いますが、中にはなるべくしてそうなったって人もいると思うし。 だから、一くくりにして救済しなきゃいけないってことはない思う。 もちろんそんなことを言ってられるのは、自分が当事者ではない、ただの傍観者だからな訳で、そんなことは重々承知しているわけですが、なんだかんだと意見してる連中ってのは、結局は外野にすぎないわけで、だったら自分も当事者になってみろとか思ってしまいます。 「救済しろ」とかなんとか言うのなら、募金するなりボランティアにでも参加してから言ってみろと思います。 だから、僕自身は批判できる立場には立っていない。 いや、そもそもそれ自体が社会問題だとは思っていないから、救済する必要自体あまり感じていないわけです。 そもそも、どうして救済する必要があるのか。 そこについては色々と疑問が付きまといます。 日本が国際競争力を持つ国としてやっていきたいのであれば、現状から見ると福祉政策に力を入れることは難しいんじゃないかと思います。 理由は簡単、税金が安すぎるから。 手厚い福祉を受けるためならば、北欧レベルの消費税とか、あるいはタバコも1000円くらいにしなきゃいかんと思います。 僕は反対ですが。 それに加えて、公共事業も色々展開しなきゃいけない。 そうしたら、雇用が増えますからね。 同じようなことを金融恐慌の際に、アメリカはニューディール政策としてやっていましたが、短期的にみれば成功だったけど長期的な目で見たら必ずしも成功とは言えなかった、なんて話を聞いたことがあります。 根拠は忘れましたが。 とりあえず公共事業ってのは、国民の血税を使って行う事業なわけですから、みのさんとか鳳さんとか古館さんあたりはまた、無駄遣いだのなんだのと騒ぎ出すのが関の山でしょう。 政府としてもやらなくてもいい公共事業に手を出すくらいなら、もっと有益なところに手を出すべきだとも思います。 そうすると、あえて切り捨てる、って選択肢もあるんじゃないかな、って思うんですよ、僕としては。 弱者が切り捨てられるっていう社会をあえて作り出すとすれば、そのなかで淘汰されないようにあがくでしょうから。 そうしたら自殺が増えるだとかなんとか言われそうですが、混沌とした時代こそ自殺は少ないそうなので、おそらく大丈夫だと思います。 死ぬのだって一苦労ですからね。 死ぬことだって、生きることだって、どちらも同じくらい労力を使うもんだって思います。 だったら、生きることにその労力を費やせばいいんじゃね、って思いますがね。 消極的な言い方かもしれませんが。 それくらい一生懸命生きてみろって、上から目線ですが、思います。 生活に困るんだったら、一揆でも徒党でもなんでもやってみて、社会不安にでも陥ったら、たぶん救済されると思います。 それくらいやってみたらどうだって思いますがね、本当に困っているならば。 極論ですがね。 逆に言えば、自殺できるくらいの勇気がある人ってのは、僕からしたらすげーなって思います。 でも、尊敬はしないと思います。 なぜなら、自分で続けることを拒否したから。 そんなことを思ってしまった、日比谷公園での出来事でした。 ▲
by rinnken1228
| 2009-01-04 20:13
| は○しケンイチ的こころ
どうも、オール明けです。
ゼミの忘年会(参加者少ねーけどwwww)で、2次会まで行ったら終電逃しましたwwwww つーか、1次会の時点で逃してたんですがwwwwwwww 完全に見栄張って、2次会は後輩の分はおごっちゃいましたwwwww やべー、金ねーwwwwww あと、今年忘年会残り4回。 タイトルは、自分の今の気持ちです。 なんといいますか、質問に対する返答が感情論で返ってきたときって、めんどくさいですね。 正直、疲れる。 だって、自分の感覚に一度置き直さないといけないから。 だから、ゴリ押しで押し切られた形になって、妙に禍根を残す結果になる。 めんどくせ。 ま、そもそもですが、本当のこと喋ってないでしょ、ということだけは感じました、正直。 言うのもかったるかったし、そこで生産性のない口げんかをする気もなかったから、あまり言いませんでしたが。 なんつーの、腹割ってしゃべりましょうとかなんとか言っときながら、隠し事してるって、卑怯だよね。 信用してないとゆーか、どっかで線引きしてるんだろうなってのは感じましたね。 ま、面と向かって言わずに、こんなところでぐーたれてる自分は、もっと卑怯者なんですがwwwwww あっちを笑えません。 そんな僕ですが。 本日、職場の某お姉さま(たぶん20代ww)に、「冷たい男」と言われ、なかなかへこんでおります。 これまでも、「女の敵」だとか「信用ならない男」だの、挙句の果てには「ドS」だのと、マイナスのレッテルを色々貼り付けていただき、僕に何か恨みでもあるのかと過去の行動を色々思い返してみたのですが、思い当たる節がなく、まったくの謎なわけです。 まさかとは思いましたが、「僕に惚れたんですか?」と聞いたところ、「殺されたいの?」と返されました。 今流行のツンデレってやつなんでしょうかね、いいと思います。 もちろん、非常にいい方ですよ、毒舌な点を除けば。 言わされているわけではありません。 ま、それはさておき、そんな指摘を受けてふと自分を見つめ直してみると、なるほどそうなのかもなとも思ったりするわけです。 今更ながら。 自分のクセというか、最近あえてそうしようと思っている部分もあるのですが、あえて一歩引いた視点から見ようといった姿勢が、そう思わせているんだろうなと。 まず1点では。 冷静と言えば、ちょっとは聞こえがいいのかもしれませんが、当事者じゃないというか、どっか他人事のように思ってるように見えるんだろうなー、と。 そのあたり、「こいつ何考えてるのかわからない」っていわれる部分とリンクするのかもしれませんがね。 どの立ち位置をとるかってのはなかなか難しい部分があって、ある流れの中に身を投じているのか、それとも上空から俯瞰する態度を取るべきなのか、そのどちらを選択するのかは結構難しい問題だと思うんです。 流れに身を投じたら、その流れの一滴になり得るけれど、全体像を捉えることはできないと思う。 逆に俯瞰する態度は、全体像を捉えることはできるけど、組織として行動してるのかって評価では、おそらくマイナス。 でも、組織に属するということは、言ってしまえば流れの中に入り込むってことで、今の自分の態度って、卑怯者のすることなのかなぁって、最近思うことがよくあって。 結構、考えてしまいます。 ベストは流れの中に身を投じつつ、自分の位置なり全体を把握することなんだろうけど、どうやったらできるのか。 んーーー、わからん。 社会に出てやっていけるんだろーか。 うわーーーー。 もうひとつは、執着心がないこと。 金にはあるんだけどねwwwww そうらしーです。 これからは、温かみのある男を目指して頑張りたいと思います。 ・・・I上さん、読んでたらすいませんwwwwwwwww ▲
by rinnken1228
| 2008-12-24 01:04
| は○しケンイチ的こころ
見田宗介「まなざしの地獄」読み終えました。
読み始めてから2日という早さ。 いやま、ページもほとんどないんだけどさ。(100ページもいかないくらい) さすが、社会調査における名著といわれるだけあり、量的調査と質的調査が見事に融合しあっているなぁ、という印象を受けました。 月並みですが。 そして、どうしたらこのような見方ができるの?という、ある種センスというか、嗅覚みたいなものに舌を巻きました。 自分もこのレベルの分析で卒論を書きたいですが、時間という物理的な制約があるため、できません。 うそ、能力の問題だと思います。 ここでの題材となったN・Nという人は、永山則夫という連続射殺事件で逮捕された犯人で、既に死刑が執行されているのは有名な話ですが、見田さんは具体的・抽象的な表象性をもった都市からのまなざしにさらされ、囚われ、そして「地獄=監獄」へと引きずり込まれる過程を質的・量的な側面から描いていったわけです。 ものすごく端折って言えば。 彼がさらされたまなざしの裏側には、故郷というものがあり、貧しさがあり、そして集団就職があった。 そこに潜む社会病理みたいのを浮き立たせていったという点では、非常に意味のあるものだったと思います。 しかし、当然まぁ、納得いかない部分もあります。 主に3つ。 ひとつは、N・Nはただまなざされるだけの存在だったのか、っていうことです。 人間である以上、まなざしの向こう側にいる客体にずっとなっていたとは考えにくい。 彼が東京という街を、同じく集団就職で上京した同僚を、そして故郷を、どのようにまなざしたのか。 ただ、ここでいうまなざしと、見田さんの使ったまなざしとでは、多少意味が違ってくるのかもしれませんが。 だから、あえて捨象したのかもしれません。 ふたつめ。 それは、まなざした主体も、同時にまなざされるべき客体であるということ。 前者の言いかえみたいになってますが。 つまり、N・Nという一人の人間をまなざした主体の中でも、まなざし、まなざされる関係がいくつも生まれていたと思うんです。 それを、どう解釈すればいいのか、そして実際にしたのか。 気になるところです。 もしかしたら、どちらも言及しているのかもしれませんが。 そうだとしたら、僕の認識不足です。 そしてもうひとつ。 まなざされることによる、快楽みたいなのは存在しないのか、ってこと。 地獄は地獄で社会病理を映し出すのだろうけれど、逆に快楽というのは存在しなかったんだろうか。 快楽というのは楽観的な視点なのかもしれないけれど、光の裏には影があるわけだから、きっとそこにも病理と言うか、なにかどす黒いものが隠れているように感じたんですわな。 でもま、凄い作品だと思います。 とりあえず、大澤さんの解説での持ち上げっぷりには、多少引きましたwwww 解説の中で、N・Nの事件と、先日の秋葉原の事件とでは、「まなざしの地獄」と「まなざしの不在」という対照性が生じているといった言及がありました。 僕はちょっと違うのかなぁといった印象を持っています。 秋葉原の事件についても、その犯人に対するまなざしは存在してたんじゃないか、と思います。 ただ、その主体が誰かというと、それもまた彼自身だった。 つまり、鏡の前で向き合っているようなもので、ずっと向き合っているうちに、どちらが本当の自分だかが解らなくなってしまった。 そんな齟齬というか、混乱から少しずつ歯車が狂ってしまったんじゃないかな、なんて思うんですよ。 だから、誰からも存在を認めてもらえていないように感じた。 鏡に映る像自体には、まなざす力はありませんからね。 ま、僕は研究者でも専門家でもないのでよくわかりませんので、これ以上の詳しい言及は避けることにしておきますね。 ▲
by rinnken1228
| 2008-12-17 00:28
| は○しケンイチ的こころ
まる1日、卒論に触れないという荒業をこなしたワタクシ。
作業がひと段落して、燃え尽き症候群になったようですwwww ずいぶんと早いですが。 ・・・もう1年ですか? いません。 久々に、ああでもなく、こうでもなくを繰り返してみようかと。 ①同情するなら金をくれ 朝とか夜のニュース番組を観て思うこと。 生活に困っている人への取材をよく観る気がするけれど。 今日1日を過ごすことさえもままならないとか言って、ほっとけないとか言ってるけれど。 だったら、あんたが助けてあげたらいいんじゃないですかね? ほっとけないなら。 ②社会を動かすためには・・・ 本当に現状に変革をもたらしたいのであれば、社会的な地位を持つ人間は、改革の火蓋を切ることをしてはならないと思う。 むしろ、改革の火種をくすぶらせ続けることにこそ、彼らの意義があると思う。 なぜなら、民衆こそが、社会を変えるパワーを秘めている存在だから。 ③怒れ!とりあえず、誰にでも 今の世の中、誰にでも怒っておけばいい世の中らしい。 公然と批判することはおろか、公衆の面前で罵倒することさえも許される世の中のようである。 怒りという感情に任せてしまえば。 しかし、結局それは批判された側と同じ土俵に立っているだけの、ただの道化である。 そもそも正義と怒りとは、まったくもって異なるものである。 ④メディアの持つ両義性 メディアに対する批判の反論では、毎度のように「報道の自由」が持ち出される。 その論理には、メディアの持つ公共性・公益性という前提が隠れていると解釈できる。 一方で、メディアも一企業である以上、利益を出すことは至上命題である。 けれど、その点についての言及はこれまで聞いたことがない。 メディアも営利団体であるという認識に立って、「報道の自由」という権利を叫ぶべきである。 そして、権利を主張するからには、それ相応の義務と責任を果たすべきだとも、思う。 ⑤報道の持つ、三角関係的なもの 伝える人間、伝えられた人間、情報をもらった人間・・・ どこに力点を置いた報道がベストなのか。 もっと考えた方がいいと思う。 やっぱり、新聞行きたかったのかなぁ・・・ いまさらながら、後悔wwww ▲
by rinnken1228
| 2008-12-06 11:44
| は○しケンイチ的こころ
別にどんな格好してようがいいと思うけどね。
神奈川の高校の件です。 服装なんて、オナニー以外の何者でもないわけだから、それ自体が個人主義の最たるものだと思いますがね。 奇抜な格好をしてようが、当たり障りのない格好をしてようが、それは個々の好みの問題。 それを常識って言葉で縛ろうとしている行為自体、規律権力以外の何者でもないと思ってますが。 それを解ってやっているのか、それとも解っていないのか。 解っているならば、確信犯だと思いますがね。 そもそも常識なんてのは、誰が設定するのか。 おそらく、選ぶ側の常識なんだろね。 ということは、多分に恣意性が含まれてくる。 (推定)Dカップ以上じゃなきゃいかんとか、下着は上下紫じゃなきゃいかん(あくまでも推測の世界)だとか。 いくら飽食の時代だからとはいえ、それに該当するJCがどれだけいるかは知りませんが。 そして、紫の下着って、着るのか?っていうそれこそ常識的な疑問はありますがwwww とりあえず、試験なんてものは客観性が求められるわけだから、恣意的な条項はなるべく排除しなきゃいかんはず。 それを入れたって時点で、あの校長は糾弾されて然るべきだと思いますがね。 そもそも論ではありますが、全ての子供と向き合おうとしないというか、大局的な視点に立てないという時点で、教育者としてどーなんだ、って思いますがね。 個人的な意見ですが、同じ人間とは思わないだろうね。 ま、人間じゃないからいいかとは思いますが。 話変わって、前回のつづき。 ↑↑Love Train 44193系 なんなんだ、この神がかり的な違和感のなさは・・・wwwwww とりあえず、笑いとは別の意味で、心を打たれますwwwwww タイトルは、S.Maugham「月と六ペンス」での一幕から。 これは、未来などなく、刹那が永遠に続くと解釈するのが正しいのか。 それとも、単純に未来の存在を捨象しているだけなのか。 それ以外にも解釈は可能でしょうが、とりあえず、過去との訣別という点では、同じでしょう。 だけど、そんなことが実際問題できるのか。 人間というものは、歴史というものの上に成り立っている。 過去の自分との対比の上に、現在の自分がいるような気がする。 このセリフを吐いたストリックランドも、そのような思想を持つきっかけは、過去の自分にあるはず。 なのに、なぜ過去にあえてスポットライトを当てようとしないのか。 謎です。 ▲
by rinnken1228
| 2008-12-05 11:13
| は○しケンイチ的こころ
今朝、電車の中でのできごとでした。
反対側の席に座ってた女の子(4~5歳くらい)が、 ずっとM字開脚してました。 なぜだか妙に、動揺してしまいました。 今度は帰りの電車の中でのできごとでした。 丸首Tシャツの首の部分をなぜかずーっと引っ張っていてはだけさせているおねーさまが僕の前に立っていました。 ベージュだったし色気も感じなかったし、体型もおむすびころりんみたいだったので、別に気にもとめずに本を読んでいたのですが。 降りぎわに一言。 「どこ見てんのよ」 出た、青木さやか。 そのあと、ひじょーに居心地が悪かったのは、言うまでもなく。 こんなよくないことが続く日は、こんなことも起こるんですね。 筑紫哲也さんが亡くなりましたね。 あまり人を尊敬しないタイプの人間ですが、この人はすげーな、って思える人だったと思います。 個人的には。 思い出せば、この人に影響されて、新聞記者に憧れたんだっけ。 そーして今の大学を目指したんだっけか。 だけど、入ってから、あえてそれでいいのかと考え直して。 そうしたら、新聞というか、ジャーナリズムの世界に疑問だけを抱くようになって。 んで、結局メーカーに落ち着いて。 でも記念にと、筑紫さんと同じ新聞社を受けて。 記者職で内定はもらったけど、結局最後まで自分の中で答えが出なくて、行かなかったんだっけなー、って。 伝えることで何が変わるのか。 批判することで、何かが進むのか。 その答えは、出せなかったな。 もとから答えなんて、ないんだろうけど。 なんというか、「批判する」ジャーナリズムというものを、浸透させた第一人者のように思います。 良くも、悪くも。 でも、ただ単純に闇雲に批判するんじゃなくて、認めるものは認めて、ある根拠をもとに、批判しているように感じた。 しかも、理路整然と。 そこが、古○いちろうとか、み○もんたなんかとは違うところだったと思う。 多事争論は、本当にすげーなって、昔は思っていました。 思想的なスタンスは、あまり共感できない部分の方が多かったけれど、ひとつの報道のあり方を見せてもらえたような気がします。 体を張って。 信念を持って。 ジャーナリズムの面白さを感じさせてもらえました。 でも結局、彼らが実際に何を生み出しているのかが解らなかったんだよな。 批判の先に何があるのか。 筑紫さんは答えが出ていたのでしょうか。 だとするならば、聞いてみたい。 もうできないけれど。 こういうの書くと、やっぱり新聞志望だったんだなー、って思うんだなぁ。 まぁ、もう後の祭りです。 兎に角、ご冥福をお祈りします。 合掌。 ▲
by rinnken1228
| 2008-11-08 02:00
| は○しケンイチ的こころ
橘れもんが引退らしいです。
引退早くね?2年も経ってねーじゃん、みたいな。 現役東●生だからなのか(真偽のほどはともかく)、 インテリという響きにそそられたからなのか、 女子大生という職業にそそられたからなのか。 それとも単純にかわいいからなのか。 結構借りてただけに残念であります。 そして、同業者のみなさますいません。 そういう目で見てるわけじゃないですからね、ご安心を。 さて。 またまたああでもなく、こうでもなくを繰り返してみようかと。 ①卒論について やばい。 とりあえず、やばい。 一向に前に進める気配がないという悲劇。 抽象化と具体化の間を行ったり来たり。 単なる上下運動。。。 それ以上に。 義務感から書いているというこの状況。 まったく生産性なし。 そっちのほうが、もっとやばい。 ②日本人について タイにいて感じたこと。 日本人ってのは、しょーもない人種である(もちろん例外あり)。 上海に行って感じたこと。 日本人でも意外と骨がある人間もいるもんだ。 ③帰属と解放 出国ゲートを通った瞬間がなんだか好き。 所属されていたものから解放されて、自由になれたような気がするから。 だけど、しばらくすると言いようのない不安みたいなものに駆られる。 たぶん、何にも属していないことに対する不安なんだと思う。 どこかに所属しているということは、息苦しいけれど、安心感がある。 解放されたら、自由になれるけど、心細さがつきまとう。 だから、人間はどこかに属していたがるんだと思う。 そして、そうしていないと生きていけない。 ④羞恥心について メディアの中での発信をみると、なんだかなぁといつも引っかかるものがある。 それは、発信した人の羞恥心が欠けているからだ、なんて仮説を立ててみようかと。 言論の自由なんてものが存在するから、幼稚な、相手を考えないような意見の発信ができるのだと思う。 口に出せば出すほど、信念が欠ける、薄っぺらくなる。 言論の自由が保障されているからといって、何かと意見を発信すればよいというわけではない。 もっと、慎み深くあるべきだと思う。 そんな自分も、こんな場で意見の垂れ流しをしているという矛盾。 ⑤サービス業についての一考察 サービス業とは、他人の世話をやってあげる業種。 その領域が増えれば増えるほど、人間の自発的な思考は停止する。 個人は社会を動かしていく力になるのではない。 ただ単に、社会によって動かされるロボットに成り下がる。 行き着くところは、生ける屍だったり。 Win-Winなんてのは、その場限りの戯言以外の何物でもなかったりして。 ⑥なんでも、人のせい? 消費者というものには、思考力がないのか。 いつまでも、受け身でい続けるのが、消費者なのか。 受け身でい続けるから、何か問題が起こったときに人のせいにしたくなる。 自身が主体的に考えて動けば、避けられるはずのトラブルでさえも。 何でも人まかせ、人のせいというのはいただけないね。 赤ちゃんじゃあるまいし。 とりあえず、明日、蒟蒻畑を買いに行きます。 ▲
by rinnken1228
| 2008-10-11 02:20
| は○しケンイチ的こころ
こんな夜遅くに更新。
また思ったことをのらりくらりと。 ①実業と虚業 実業と虚業についての自分なりの定義。 1.実業 ・実物、具体を伴う ・社会全体から必要とされる ・安定的 ・基本的に産業の中核となる ・運輸・インフラ・メーカー(上流)・農林水産業など 2.虚業 ・抽象度が高い。概念的。 ・社会に対して必要と感じさせる ・不安定 ・産業の周縁部を取り持つ ・生産と消費の(不毛な)無限ループを繰り返すもととなる ・広告・教育・メディア・最終消費財メーカーなど 虚業から実業へと移行することはあるかもしれないが、その逆は基本的にない。 社会をリードするのは後者だが、前者がなければ後者は成り立たない。 どちらがいいとか悪いとかではなくて、どちらもなければ社会は成り立たない。 ②内部告発について 内部告発をするような人間は、人間の屑だと思う。 信念などきっと持たない、風上にも置けない人間なのだろう。 そもそも組織の不正を正すならば、組織の中で立ち向かえばよい。 うまくいかなかったとすれば、それはその方法に何らかの問題があったのだろう。 そもそも、内部告発をしたところで、しわ寄せが来るのはおそらく末端。 一時的に効果はあるかもしれないが、組織の基本的な体質が変わるとは到底思えない。 組織に属する者は、組織を正しい(と思う)方向に導く義務はあれど、同じ組織の人間の人生をいたづらに狂わせる権利はない。 ③勧善懲悪 ②と連動。 最近、勧善懲悪的な世の中だと感じる。 「いーけないんだーいけないんだー、せーんせーに言っちゃーおー」と、社会全体が言っているような印象を受ける。 息苦しいというよりも、幼稚。 非難の対象の悪行をさらして騒ぎ立てておいて、結局何がやりたいのかがわからない。 つまるところ、他人事なのだろう。 そうでなければ、無闇に騒ぎ立てることもするまいて。 「正義」とか「モラル」という言葉もハッキリしない。 主語なり目的語なりが欠落しているから。 自己陶酔に浸るような勧善懲悪ものも、仮面をはがせば茶番劇である。 ④あいさつと感謝 あいさつをしない人間は、きらいだ。 「ありがとう」をいえない人間も、また同様。 自分にも足りないところはあるけれど、そういう人間とは深い付き合いをしたいとは思わない。 幼稚園児ならまだしも、いい大人がそういう体だと、育ってきた環境を疑ってしまう。 あいさつができない人間は、結局周りを見ていないと思う。 自分のことしか見えていない。 裏を返せば、その逆の人間は、周りに気を配ることができる(はず)。 信頼関係を構築したい、組織を変えたいと本気で思うのであれば、そんなところから変えていったほうが手っ取り早いのでは、と思う。 ▲
by rinnken1228
| 2008-09-23 03:39
| は○しケンイチ的こころ
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